三囲神社
…と思い続けていたら、どうやら都内の神社にも三柱鳥居があるらしぃ と…
さらに、その神社には沢山の石碑があり………って、出会ったしまった『三囲の石碑』なる書籍。
発行者は三囲神社の宮司さん。
石碑の解釈や解説、神社の歴史や界隈の文化・史蹟…とても興味深い本なのだけど、そう簡単に読み切れそうにない…
なにはともあれ、一度訪れてみよぉっ!
できれば、本を片手に散策してみたかったのだけど、結構分厚く重いのと、持ち歩いて汚したくないってのもあり、とりあえずは、境内図(石碑の番号がふってある)だけスマホに取り込み…いざっ
本所吾妻橋駅から牛嶋神社、隅田川を渡って待乳山聖天、今戸神社をまわり、桜橋を渡って言問団子で一休みしてから三囲神社…
どぉ〜んと鳥居!
さらにどぉ〜んと鳥居…っと、灯籠が石碑があって…本で見て想像していたよりも、石碑石碑…とにかく石碑…
社殿前の三越の迫力あるライオン像が霞んでしまうくらい、石碑が立ち並んで…みてまわるだけで、なんだが忙しい。
早くも“今日は下見だ!”ってくらいな開き直りでこなさないと日が暮れてしまいそう………
社殿を真ん中に左右に別れる先…
左手には、月読社とその先に顕名霊社…こちらは、三井家の先祖を祀る祖霊社だそうで非公開…柵は施錠されてるけど、柵越しに拝見することはできる…小ぶりだけど重厚な趣と品のあるお社。狛犬さんがかわいらしぃ…
その奥に、隅田堤に面した裏門…こちらも施錠してあって通ることはできず。
社殿裏手〜右手へ…まだまだ石碑石碑石碑…読めるものなら読みたい!…いろんな意味で、無理…
でも、なんか楽しいのだ…
おぉ〜っ!三柱鳥居発見!
そんなに大きくはないのだけど、笠木がどっしりとしていて静かな迫力がある。それにしても…やっぱり不思議な眺め…なんだろぉ…ぞくっとする…畏怖?
囲いがあってすぐそばまで寄れないのが残念…下から△を仰ぎ見てみたいものだ…
さらにずずっとすすむと…一気に朱色。小ぶりな鳥居が並び、一気にお稲荷さんらしぃ雰囲気に。大小、表情も様々な神狐さんたち…この感じが、好きなんだなぁ〜
って、朱の合間にも、もちろん石碑っ
ひとまず、一周出来たけど… ほんとに“下見”という程度しか拝見出来た気がしない…
次回は一日こちらに“籠もる”覚悟で、本持ってお邪魔させていただきたいです…(2016.12撮影)
→『三囲の石碑』
「当社の草創は実に壱千余年前の事にして其間屡々の変換あり。元亀年間大災に羅り社殿を再建し慶長年間には隅田川築堤に際し旧社地よりより約南二丁の現地に移さる。霊験妙なるが中にも元禄六年六月の大旱魃の時俳聖 晋其角献句雨乞によりて霊験立ちどころに顕れ翌日大雨あり。之より御神徳天下に晋く特に京都の巨商 三井家江戸に進出するや三囲大神の信仰厚く当家の守護神と仰ぎ亨保元年三井高治、三井高久、三井高房相議りて神祇の司職吉田家に神位を乞請け捧げ奉り、又亨保十二年五月には従二位ト部朝臣兼敬に請ひて更に霊璽を当社に遷し鎮め奉り田地を捧げ社地を拡張し社殿瑞垣を改築せり。
爾来二百余年子孫代々祖先の志を継ぎ敬神以て今日に至る迄昔の隨々に当社の維持経営に務める。又三囲講を創設して祭祀に力を致す。
境内末社多く中にも大国神、恵比寿神は隅田川七福神の一として其名高く額殿に奉掲せる額は三井家に関係のもの大部を占め又樹間に点綴せる諸名家の碑石は其の数多く興趣掬べし。
昭和十七年一月二十五日」境内由緒碑より
《老翁老嫗の石像》
「元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいました。願い事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どこからともなくきつべが現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。
俳人粗角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を慕って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には「大徳芳感」、老翁像には「元禄十四年辛巳五月十八日、四野宮大和時水、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。
平成18年12月 墨田区教育委員会」境内案内板より
《鬼平情景》
「三井家(越後屋)が江戸進出時に三囲の名にあやかって守護神としました。港区にあった三井八郎右衛門邸が小金井市の江戸東京たてもの園に移築される際には、屋敷神であった顕名霊社、三角鳥居、家紋の入った水瓶などが寄贈されました。
鬼平犯科帳にも数回、登場しますが、特別長編『迷路』の『妙法寺の九十郎』には、三囲稲荷社は、大川の堤の道を一段下った鳥居から田圃の中を松並木の参道が東に伸びた先にあり、境内は広くはないが、美しい木立と竹林に囲まれ、本社は立派なものであると、当時のたたずまいが描かれています。」境内案内板より
《三囲のコンコンさん》
「目尻のさがった温和な表情を ここいら辺の職人言葉で『みめぐりのコンコンさんみてぇだ』と言ったそうである 向店は越後屋本店(ほんだな)の道をへだてた向いにあって 木綿を主に扱っていた
享和2年(1802)の奉納」境内案内板より
《一勇斎歌川先生墓表(歌川国芳顕彰碑)》
「一勇斎歌川先生とは、幕末を代表する浮世絵師歌川国芳 のことです。国芳は、寛政九年(一七九七)に日本橋で生まれました。十五歳で初代歌川豊国 の門人となり、文政十年(一八二七)頃「通俗水滸伝豪傑百八人一個(ひとり)」の連作を契機に人気を博し、浮世絵のあらゆる分野で高い水準の作品を残しました。
この碑は、文久元年(一八六一)に没した国芳の十三回忌にあたる明治六年(一八七三)に建立されました。撰文は学者の東條琴台、篆額と書は萩原秋巌、碑刻は宮亀年 が受け持ちました。碑文には国芳の出自や経歴、建碑の経緯などが刻まれています。裏面には、建立者である弟子たちの名が刻まれており、その中には明治時代の浮世絵を代表する月岡芳年 や新聞錦絵の落合芳幾、おもちゃ絵の歌川芳藤 などがみられます。芳年の画系は水野年方から鏑木清方、伊東深水、岩田専太郎 と近代日本画の流れとして続きました。
国芳は向島に住居した時期もあり、この碑は墨田区の浮世絵に関わる豊かな歴史を示す貴重な文化財といえます。
平成二十四年一月
墨田区教育委員会」境内案内板より
お湯のみには温かいお茶。
お店の一角が、ちょっとした博物館(?)になってる。
職人さんのお半纏や、お団子の包みに入っていたしおり、特製のお皿…歴史を感じるそれらがウィンドウに飾られてる。
心も体もほっこり。
さっ、もうひと頑張り!!
おっ?
お店の向かいに…桜が咲いてる!!
白が強い方が“冬桜”で、ピンクが強い方が“十月桜”とのこと。
寒いのに…こんなに寒いのに………
がんばれっ桜!!
→ 『向島 言問団子』
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