根津神社
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上野公園の美術館の帰り道…谷中をふらふらお散歩。猫欠乏症に病んでる今日このごろなので、運命の猫に出会えるよぉに、お参りを…
以前、つつじが咲く季節に訪れてから、もぉ7年も経ってたとは…びっくり…
つつじの花の無い季節の境内は、緑が深く、権現造りの色鮮やかな社殿や、境内社の連なる鳥居の朱が一際鮮やか。
乙女稲荷神社では、ちょうど神職の方々が祝詞をあげている真っ最中だったり…うぅん、出会いありそぉ〜猫さんと…
もう一つの境内社、駒込稲荷神社では、境内の端なせいか人影無く…ゆぅぅったりお参り…玉垣の中の神狐さんたちは、楚々としたお姿で、外の神狐さんたちは…溶岩の小山のあちこち、穴の中にも…走っているよな姿だったり、丸まってたり…なんとも微笑ましぃ。
お守りでも…と思って立ち寄った授与所。
“開けば何処でも神棚!”と書かれた、飛び出す絵本のよぉな、開くと朱い鳥居が立ち並ぶ御札(?)に一目惚れ…くぅ〜そろそろ出会えそぉな気がひしひししてきたっ!!
(2015.9撮影)
日本武尊が1900年近く前に千駄木に創祀したと伝えられている古社で、文明年間(1469年-1486年)には太田道灌により社殿が造られた。万治年間(1658年-1661年)にこの地が太田氏の屋敷地となったため東方に移り、さらに団子坂上に遷座。現在の場所は、宝永2年(1705年)江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が兄綱重の子・綱豊(のちの第6代将軍・家宣)を養嗣子に定めた際、綱豊の産土神とされていたため綱豊の元の屋敷地を献納されたもの。社殿が宝永3年(1706年)に完成し、同年遷座。
権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされていて、社殿7棟(本殿・幣殿・拝殿、唐門、西門、透塀×3、楼門、)が国の重要文化財に指定されている。
《つつじ苑の記》
「当根津神社の社地は江戸時代もと甲府宰相徳川綱重の下屋敷であり当時よりつつじの名庭であった 没後五代将軍徳川綱吉は兄綱重の子綱豊を嗣子と定めた時その氏神たる当神社の御神恩に感謝しこの邸地に当時の名工をすぐって世に天下普請と称せられる壮大な造営を行い、今に残る華麗な社殿、神門などを奉建 宝永三年駒込の旧鎮座地より一品公辨親王司祭の下に遷座祭を斎行 神苑には更につつじを増植し 以来この地は「つつじが岡」と称せられ実に名勝であった 併し年処を経るに従い漸くその姿も衰え右の佛の亡び行く事を思い慨き十数年前より氏子一同献木の挙を興し昭和45年「文京つつじ会」を結んで花季には「つつじ祭」を催行 その充実と発展とに努め 今や樹数 数千 本 その種類 頗る多く 往時の「つつじが岡」に勝る盛観を見るに至った本年第十回つつじ祭開催に当り有志一同相謀り 記念に本碑を建立 その由来を後昆に伝える所以である
昭和54年4月吉日 根津神社宮司 内海元撰」
《徳川家宣胞衣塚》
「六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。
この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(1662)4月5日ここで生まれた。
胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。
一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
塚正面には、明治14年に建てられた『胞衣塚碑』がある。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。
家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
─郷土愛をはぐくむ文化財─
文京区教育委員会 昭和58年3月」
《庚申塔・六基》
「ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以後、道路拡幅などのため、根津神社に納められたものである。
正面から左回りに刻まれた像、銘文を見ると、
(1) 青面金剛・猿・鶏・寛文八戌申(1668)・駒込村・施主十五名
(2) 観音像・庚申供養・施主十二名
(3) 日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申(1692)施主二十六名
(4) 日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(1680)願主一名
(5) 梵字・庚申供養・寛永九年壬申(1632)・都島●(※“庚”が欠けた)馬米村・施主七名
(6) 日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町・施主十名
この中で、(5) の庚申塔は、寛永九年(1632)の建立で、区内の現存のものでは最も古い。都内で一番古いのは、足立区花畑にある元和九年のもので、これより九年前の建立である。青面金剛は、病魔・悪鬼を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使いとされ、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿は、そのようなつつしみ深い生活をすれば、神の恵みを受けられるとされた。
庚申信仰は中国の道教から生まれ、六十日ごとにめぐる庚申(かのえさる・十干十二支の組合わせ)の夜は、人がねむると、三尸の虫がその人の体からぬけて天に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を縮めると説かれた。これが仏教と融合してわが国に渡来し、古来の天つ神を祭るおこもりの習慣と結びついた。
江戸時代に、特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集り、般若心経を唱え、和やかな話合いで一夜を過した。また、祭神も猿田彦神、塞の大神=道祖神であるとの説もある。
─郷土愛をはぐくむ文化財─
文京区教育委員会 昭和56年9月」
《塞の大神碑》
「この塞の大神碑は、もと通称駒込の追分(向丘1-1)にあった。ここは現在の東京大学農学部前で、旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で追分といわれた。
この追分は、日本橋から一里(約四粁)で江戸時代一里塚のあった所である。今も角店は江戸時代から続く老舗の高崎屋である。この高崎屋よりに一里塚があり、榎が植えられていたが、明和3年(1766)に焼け、その跡に庚申塔がおかれたが、これも文政7年(1824)の火災で欠損した。
その跡地に、この塞の大神碑が、明治6年(1873)建てられた。同43年、道路の拡幅のため、碑は根津神社に移され、現在に至っている。礎石に移転の事情が刻まれている。
塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、みちのかみとも道祖神ともいわれる。
─郷土愛をはぐくむ文化財─
文京区教育委員会 昭和56年3月」
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