東向島白鬚神社
風は冷たいものの、春の気配と新年のうきうき感が穏やかに漂ってる。
この日は、待乳山聖天から隅田川を渡って東岸北上コース。
隅田川がキラキラきれい。
草餅食べて小休止。
子育て地蔵堂横から白鬚神社へ続く墨堤通り一本裏手の緩やかカーブの道に沿った一段下がった小路が、なんかいぃ雰囲気って思って歩いていたら、案内板発見。
旧墨堤の名残りなんだそぉな。
一の鳥居の先がちょっと低くなっていて、二の鳥居でまたちょっと上げる…そのの左右に、石碑がずらずら並んでいて、ちょっとワクワク。
お正月だからなのか、拝殿の扉も神輿蔵の扉も開かれていて、ちょっと華やか。
それでも社殿の素朴な佇まいがなんだか懐かしく感じられ、居心地良くてほっとする。
いぃお正月です…(2018.1撮影)
天照大御神、高皇産霊神、神皇産霊神、大宮能売神、豊由気大神、健御名方神
「天暦5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社殿の記録は伝えている。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生れた。社前の狛犬は山谷の料亭八百膳として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化12年に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治40年には氏子内の諏訪神社を合祀した。
《隅田川七福神》
「当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当たらなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い髭の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。
隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。」境内案内板より
《旧墨堤の道》東向島三丁目・堤通一丁目境
「隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661〜73)。徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通二丁目、都立東白鬚公園辺り)から白鬚神社の北側辺りまででした。江戸時代中期には八代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島二丁目、言問通り)まで延ばして人々に字固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。道幅は広く、堤の両側には、見事な桜の並木が続いていました。
白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿を消してしまった、旧墨堤の名残りです。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で、特ににぎわいました。
関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と『墨堤植桜之碑』(向島五丁目四番先)近くの湾曲部の二ヶ所だけとなっています。
平成二十一年三月 墨田区教育委員会」案内板より
《山玉向島講社の碑》墨田区登録文化財
「山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、山玉深川元講の枝講だったと考えられています。明治八年(1875)七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中ノ郷・須崎の三地区に居住していました。専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には二十名前後の人数で富士山を登拝していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大正十一年(1922)三月に建立しました。
向かって左側に立つ石碑には『奉納基本金 大正十一年三月』と見え、四代目先達玉山丈行、講元松本萬次郎、そして当時の世話人二十二名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢八十二名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名をこえる人々が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者は屋号記名した五軒を除き全て男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高いことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったと考えられます。
なお、四代目先達玉山丈行は本名を重城丈吉といい、白鬚神社の氏子総代の一人でした。遅くとも大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三日には富士登山三十三度大願成就を果たして富士吉田の御師『大番城』の屋敷に記念碑を建立していました。左に立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており、講社の沿革を知るうえでも貴重な情報を提供しています。
平成二十四年一月 墨田区教育委員会」案内板より
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