豊榮稲荷神社
こじんまりとしてるけど、日が差し込む明るい境内…朱色が輝いて見える。
その途中、脇に手水舎。ここも朱色…その奥の提灯も朱色…気持ちがどんどん明るくなってくる。
さらに…社殿も、もちろん朱色。壁は白く、差し色は緑…そして、金。あぁ、気持ちいぃ〜 と、うっとりお参りしてたら、雄叫び(!?)が…って、お隣の『蔵脩館』で、お子たちが元気に剣道中っ
気持ちがさらに明るくなる…(いや別に、暗かったわけじゃぁないのだけど…)
ひたすら、清々しく心が軽くなる素敵なお稲荷さん。(2014.3撮影)
「稲荷大神は、宇迦之御魂神(倉稲魂命)を斎い奉る神号と言われております。また、稚産霊神、豊受媛神をも稲荷神と申し上げることもあります。稲荷の名称については多くの説があり、稲苅、稲荷(いなに)、稲生(いねなり)が稲荷(いなり)になったとも言われ、伏見稲荷神社の御神像が稲を荷ったお姿であらせられたことから稲荷と書かれるようになったとも言われております。
宇迦之御魂神は食物を掌り給い、伊弉諾・伊弉冉尊の御子、又素戔嗚尊の御子とも言われております。稚産霊神は穀物、養蚕を掌り給ふ神で、豊受媛神は伊勢の外宮に祀られて、内宮に祀られる天照大御神のお食事を掌り給う神であらせられます。
創建は鎌倉時代の頃、渋谷八幡宮(現 金王八幡宮)をお祀りした渋谷氏の祖河崎土佐守基家の曾孫高重によって祀られたと伝えられています。当神社は元 渋谷川の辺、渋谷駅の近く(並木町三十一番地、公設市場と渋谷川の間)にありました。渋谷川が渋谷城の壕に利用されておりましたので、江戸時代文化の頃までは『堀ノ外稲荷』、その後『田中稲荷』と称せられておりました。また、川の端にありましたので『川端稲荷』とも申しました。
昭和27年道玄坂(上通り4丁目34番地)の豊澤稲荷神社が合祀されました。豊澤稲荷神社は元猿楽町京極家(旧但馬豊岡藩)の下屋敷内に祀られておりましたが、明治初年道玄坂上にお移しいたし、中豊澤にあった多くの稲荷祠を合祀したということです。東京都の区画整理事業が行われるにあたり、昭和36年10月現在地に移り豊榮稲荷神社と申し上げることになりました。
昭和47年に新しい朱塗りの御社殿を造営し、昭和50年には約50坪の道場を中心とする研修道場『蔵脩館』を建設いたしました。
御神徳は、家内安全、家運隆昌、開運厄除、子授安産など私たちの日々の生活の守りの神、産霊の神として古くより御神徳が高く霊験の灼かな神として崇敬されております。
蔵脩館は、書家の氏家史山先生が中国の『礼記』の“蔵・脩・息・游”より選んだ言葉です。これは学問の成長の段階を示した語で、蔵は、書物を読んで覚えること。脩は、実践を重ね修練して自分のものとすること。息は、学問が極まって遊ぶが如く楽しむこと。といった意で、研修道場にふさわしい名称となりました。
境内には、『延宝』『貞享』『元禄』『宝永』『享保』『元文』など、江戸時代中期の庚申石塔が十一基保存されています。元田中稲荷神社の境内にあったものを移転したものです。
庚申信仰とは、江戸時代から続く民間信仰で、十干十二支の庚申の日に眠らずに夜通し身を慎む習俗で、庚申講を組織し、三年間十八回連続で庚申講を開くと、庚申塔を建てました。」“豊榮稲荷神社の記”より
《庚申塔群》
「庚申信仰は江戸時代に庶民の娯楽を兼ねて流行し、それによって各地に庚申塔が建てられました。
ここには十三基の庚申塔が集められていますが、像容がまちまちです。
一般的に見られる六腑の青面金剛像だけのもの、その下部に天邪鬼や三猿を配したもの、三猿のみのもの、及び『為庚申供養』と文字だけを刻んだものなどがみられます。これらは町や村の辻に建てられたこともあって、右から七番目の塔には『めぐろ・こうわう道』と刻まれていて、道しるべを兼ねていました。また、すべての塔の下部に建立者の名前が刻まれていますが、右から三番目のものには渋谷伝左衛門以下同姓の名が見え、旧領主渋谷氏との関連があるかどうか興味がもたれます。
庚申信仰の内容については、境内の『庚申塔略記』をお読みになって下さい。 渋谷区教育委員会」境内解説板より
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