筑土八幡神社
アノ頃はスマホなんかなくて、頼りにならない方向音痴のトンデモ勘で、どこにいるんだかよくわからなくなって…見過ごしたものもいっぱいあったと思うけど、迷うのも結構楽しくて…
で、そのときも、よくわからずにいつの間にか辿り着いた“神社”…結構長い階段と、その途中の小さな公園、大きめな石が敷き詰めてあった…という断片的な記憶(というか写真)だけで、神社の名前すら知らなかったのだけど…
“動く地図”を手に入れてからは、ストリートビューなんかもちらちら見つつよく地図上散歩してるのだけど…そして“再会”したこの神社。
おぉ〜この階段はっ!!…みたいな。
というわけで、10数年ぶりに訪れてみた…
季節のせいもあるのだろうけど、鬱蒼としていたイメージが払拭…階段脇の小さな公園の乗り物が違う…境内のごろごろ敷石もっと白くなかったっけ?
お猿さんが二匹描かれてる庚申塔、覚えてるぅ〜
…とかとか、思ってた以上に楽しいかも。
庚申塔と百度石と御神木、境内社の小さめな鳥居…その一角に、なんだかすごくすごく心惹かれて…
あの頃から“神社”の空気が好きだったんだな…
昔に訪れたことのある神社が、無くなってしまったり姿を変えてしまったりって、結構多い…
まだデジカメなんて手が届かなくて、24枚撮りフィルム一本をカメラに入れて…そんなことを思い出すと、今のこの状況って、なんて幸せなのでしょぉ〜
かつて訪れた神社に知らず再訪できる…なんてこと、そのうちまた起きそうだな。(2017.3&2001?2002?撮影)
「昔、嵯峨天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、“われ、汝が信心に感じ跡をたれん。”と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわして、その松を祀った。
その後、伝教大師がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。
さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたって上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和20年の戦災で焼失した社殿も、昭和38年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。
平成九年九月吉日建之」境内(階段途中)案内板より
境内社:宮比神社
「御祭神は宮比神で大宮売命・天鈿女命ともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治40年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和37年に再建したものである。」同上
《石造鳥居》新宿区登録有形文化財 建造物(平成9年3月7日 指定)
「石造の明神型鳥居で、亨保11年(1726)に建立された区内で現存最古の鳥居である。高さ375センチ、幅470センチ、柱径35センチ。
柱に奉納者名と奉納年が刻まれており、それにより常陸下館藩主黒田守直邦により奉納されたことがわかる。平成9年5月 新宿教育委員会」鳥居脇案内板より
《庚申塔》新宿区指定有形民俗文化財(平成9年3月7日 指定)
「寛文4年(1664)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186センチ。最上部に日月。中央部には一対の雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。」同上
《神輿》
「右側の黒い漆塗りの神輿は、延宝六年(西暦1678年)に、当時の氏子崇敬者が御神徳に報謝して製作したもので、戦前から昭和48年までの渡御に用いられました。
左側の開きの神輿は、鉄製の飾り綱、支え棒のついた重厚で堅牢な造りで、慶応二年(西暦1866年)に製作されたものです。昭和52年に修理されて、その後の渡御に用いられています。」神輿蔵内の案内板より
《田村虎蔵先生をたたえる碑》
「♪まさかりかついだきんたろう♪(※五線譜&音符)
田村先生(1873~1943)は鳥取県に生まれ東京音楽学校卒業後高師付属に奉職言文一致の唱歌創始し多くの名曲を残され、また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました。1965年 田村先生顕彰委員会」
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