【番外編】八百屋於七地蔵尊(円乗寺)
『国芳一門浮世絵草紙』シリーズを一気読みし、さらに国芳さんが描いた「八百屋お七」がショックで………
なんで16って言い張っちゃったんだよ……………
とりあえず、
お七さんに“会いに”いこぉ…
都営三田線・白山駅から、旧白山通りを南へ…途中の八百屋さんには老若男女がひしめいてる…いぃ町だね。
で、200mほど先の交差点を左に折れて50m…円乗寺の参道入口脇に控えめで慎ましやかな小さなお堂…『八百屋於七地蔵尊』。
勝手に思い描いてた“お七さん”の雰囲気にぴったりで、めっきり切なくなってくる…
細長く伸びた参道を進むと、左手に六地蔵さんが並び、その並びに屋根付きの“お七さんお墓”スペースが…
「天和3(1683)年3月29日没」
中央に3基並んでいて、
真ん中の小さく削られて丸くなっている墓石は鈴ヶ森で処刑された当時の住職が建てたものだそうで、右は寛政(1793)初代・岩井半四郎(歌舞伎役者)がお七を演じた縁で建てた120回忌供養塔、左が町内の有志で建てた270回忌供養塔…だそうな。
その屋根下の左端にも墓石?お地蔵さん?お地蔵さんを掘った墓石?
その後ろに、文京区教育委員会の解説板が立っていて“八百屋お七墓(江戸時代の歴史的事件の主人公、小説・芝居などのモデル 1668〜1683)”とあるのだけど…
なにはともあれ、
それらすべての花立てには色鮮やかなお花が供えられていて、とてもキレイにお掃除されていて…とても大切にされているのですな。
…とか書きながら、あれこれぐぐっていたら…
どうやら、お七さんのお墓は、他にもあるらしぃ。
まずは、千葉県八千代市・長妙寺。養子だったんだ…!?
そして、岡山県…なんで岡山県???
って、とてもわかりやすぅいお話発見!
『誕生寺に伝わるお七伝説!』(FM岡山DJ牛嶋俊明オフィシャルブログ)
でもって、お墓は、
ちょっと小上がったところに小屋が建てられていて、その中に、二人のお墓があり、今でも供養されているそうな。
どう生きて、どう死んでいくか…
親を亡くしてから、自分の生き様を振り返るようになった…
あたしは、“生ききれる”だろか…?
《指ヶ谷》
「このあたりは昭和39年(1964)8月1日施工の新住居表示によって白山の一部となるまでは「指ヶ谷町」と呼ばれていた。
その町名の由来については丙戌書上(鳳閣寺支配正宝院)は「町名指谷と相唱候儀、小石川村東の方凡五町程の場所字指谷と古来より申候間、右唱より町名に相成候儀と奉存候」云々と述べている。しかし、「指ヶ谷」の名の起りについては不明である。
なお、旧指ヶ谷町の東北端に位置したこの南縁山円乗寺は元和6年(1620)宝仙法印によって開山された天台宗の寺院である。境内には芝居などで有名になった八百屋お七の墓がある。寺小姓の左兵衛という美少年と恋におちいったお七は、吉三郎なる村居の無頼の徒にそそのかされて我家に放火した。放火は未遂に終ったが、すぐ吉三郎と共にとらえられ、天和3年(1683)3月29日火刑に処せられた。生年16であったと伝えられている。
文京区役所・文京区観光協会」案内板より
《八百屋お七の墓》
「お七については、井原西鶴の『好色五人女』など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年〔1682〕12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年(1683)3月29日火安布里の刑に処せられた。数えで16歳であったという。3基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。
文京区教育委員会 平成14年3月」
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