【番外編】津の守辨財天
“策の池”の名残という小さな池には、ベンチが置かれたちょっとした空き地になっていて、近所の子供達が、元気に走り回ってた…
一人が大声で“おかあさん、今何時ぃ?”と叫ぶと、周辺のどこかから、“もうすぐ6時ぃ〜”
なんかちょっと懐かしい雰囲気。
ベンチに座って、そんな空気の中でボケっと一休み…
昔この池はもっと大きくて、滝もあったらしいのだけど、今はこじんまりとしていて水の音もしない…
いろんなものが時とともに消えていくけど、ほんの“気配”だけでもこんな風に残るって、なんかいぃ…
わざわざ訪れた“よそもの”の私らには、すごく特別に見えてしまうけど、
この子たちにとっては、ソコに当たり前にある風景なんだね。
この子たちが大人になった頃に「昔はここの池があって、小さな辨財天もお祀りしてあったんだよ」なんてならないことを願うばかりです…(2017.9撮影)
一人が大声で“おかあさん、今何時ぃ?”と叫ぶと、周辺のどこかから、“もうすぐ6時ぃ〜”
なんかちょっと懐かしい雰囲気。
ベンチに座って、そんな空気の中でボケっと一休み…
昔この池はもっと大きくて、滝もあったらしいのだけど、今はこじんまりとしていて水の音もしない…
いろんなものが時とともに消えていくけど、ほんの“気配”だけでもこんな風に残るって、なんかいぃ…
わざわざ訪れた“よそもの”の私らには、すごく特別に見えてしまうけど、
この子たちにとっては、ソコに当たり前にある風景なんだね。
この子たちが大人になった頃に「昔はここの池があって、小さな辨財天もお祀りしてあったんだよ」なんてならないことを願うばかりです…(2017.9撮影)
【由緒】
《策の池》
「江戸時代の古書『紫の一本』によれば徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び、澄んだこの水が高さ4mに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ『十二社の滝』『目黒不動の滝』『王子の名主の滝』等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました。天和3年(1683)美濃国高須藩々主松平摂津の守がこの付近を拝領し上屋敷としましたので庶民から遠のきましたが約190年後の明治5年(1872)時の政府による廃藩置県の発令でこの池が開放され明治7年荒木町として住民の町になりました。人々は藩主の名を慕い『津の守』と呼び今なお愛称されています。現在では湧き水は減って池も埋まり、この滝つぼ跡に昔の語り草をわずかに残しています。古来池のほとりにあった弁天祠を昭和31年崇敬者によって現在地に遷座再建し『津之守弁財天』の御神明で町民の守り神としてお祭りし御加護を受けています。平成17年乙酉卯月。荒木町々会 解脱会」弁財天参道脇解説板より
荒木町10-9 » Google MAP
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