金丸稲荷神社
於岩稲荷方面から散歩しながら“策の池”を目指し、その手前で出会ったお稲荷さん。
鳥居はお店の裏手となる路地に面して建っていて、狐さんたちは玉垣から外を見下ろす感じに立ってる…もともとは、こちらに参道がのびてたのかな?
とてもこじんまりとしてるけど、お社には彫刻が施され、社号標も鳥居も神額もちょっと小さめだけど、味のある素敵な風情…(2017.9撮影)
鳥居はお店の裏手となる路地に面して建っていて、狐さんたちは玉垣から外を見下ろす感じに立ってる…もともとは、こちらに参道がのびてたのかな?
とてもこじんまりとしてるけど、お社には彫刻が施され、社号標も鳥居も神額もちょっと小さめだけど、味のある素敵な風情…(2017.9撮影)
《御祭神》
宇迦能御魂大神
【由緒】
「この金丸稲荷神社は御祭神に宇迦能御魂大神を奉斎しこの町の守護神として尊崇され今日に至る。
天和三年西暦一六八三年美濃国高須藩主松平攝津守この地一帯を拝領上屋敷とされし折り藩主の守護神として金丸稲荷社を建立奉斎せられしよりと云う。この地を俗稱津の守と云うは松平攝津守の上屋敷跡なるに起因する。
明治五年七月の政令によりこの荒木町が誕生し町の発展は勿論津の守三業地も次第に繁栄し気品高き芸妓と三業の名と共に金丸稲荷大神は荒木町町民の暮らしの中に鎮座せられ爾来百有余年を経るに至る。
大神は和合繁栄財宝出世安全又火伏せの神として崇められ古くは度重なる江戸の大火にも尚大正十二年の関東大震災にもその災禍を免がれたりと伝えらる。
昭和二十年五月二十四日の東京大空襲に際しては惜しくも全町が焦土と化し去ったが町民には一人の死者もなかった事はこれ偏えに大神の霊験あらたかなる由と推察される。
昭和二十七年十一月に現在位置の隣接場所に遷座奉斎し来たるも昭和五十年四月吉日敷地整理のため神社は町内有志及び三業組合又崇敬者の寄進によって再び遷座再興されたものである。
御社殿の奉建に当り茲に無事息災を念じ朝夕に御社を迎ぎ神を敬う心を通
じて町内の安穏にして幸福なる生活を築き町の繁栄を計り茲にこの輝かしい
偉業を後世に伝うるものである。
昭和五十年三月二十五日之建
金丸稲荷神社 荒木町々会長 佐藤政義同副会長三浦小三郎同原五吉
建設委員 四谷三業組合長 大久保義雄同副組合長丸山キタノ
須賀神社宮司 尾方伸輔奉斎 石斧号 山下孝次郎刻」境内由来書より
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《周辺のオススメスポット》
【荒木公園】
金丸稲荷神社に隣接する公園。そこに建っている案内板によると…
「《美濃国高須藩主松平摂津守上屋敷について》
江戸時代、荒木町一帯には、美濃国高須藩主(現在の岐阜県海津市付近を領地とした藩)松平摂津守(近くの津の守坂はこれに因む)の上屋敷がありました。
屋敷内には滝を伴った大池があり、回遊式庭園となっていましたが、この池は徳川家康が鷹狩りの帰りに策を洗ったという伝承があり『策の池』と呼ばれます。池は、明治時代には一般に開放され、景勝地、花街として賑わいました。『策の池』は現在もその一部が残っており、『カッパ池』と『津の守弁財天』として親しまれています。なお、荒木町の『車力門通り』は、上屋敷の甲州街道口にあった『車力門』に因むものです。
幕末期、藩主松平義建の子としてこの屋敷に生まれた兄弟のうち、二男義勝は尾張徳川家、五男茂徳(後の茂栄)は御三卿一橋家、七男容保は会津松平家、八男定敬は桑名松平家を継承しました。兄弟は幕府方と新政府方に分かれ、立場を異にしましたが、『高須四兄弟』と呼ばれ、激動の時代を生き抜きました。 新宿区」
…とのこと。
【ナツメの木(荒木公園)】
金丸稲荷神社の背後、荒木公園の一角に一際目立つ大きな木が…《ナツメの木の由来について》
「この木は、1905年(明治28年)1月5日に、日露戦争で旅順攻略の任にあった乃木希典日本陸軍第三司令官と露西亜軍ステッセル軍司令官が旅順開城規約締結の会見を行った水師営(現在の大連市水師営鎮小南村)の民家にあったナツメの木の二世として、地元に古くから語り継がれている木である。
このナツメの木は、かつて市ヶ谷にあった大日本帝国軍の士官が、会見が行われた水師営の民家を訪れた際に、記念の証としてナツメの苗木を日本に持ち帰り、士官たちがよく通った荒木町の料亭の庭先に植えられた。その後、成長したこのナツメの木は、関東大震災の難にも逃れ、東京大空襲では痛手を被ったが、奇跡的に芽を噴出し蘇ったと伝えられている。平成12年には、マンション建設のため、一時は、抜粋の危機にも見舞われたが、地元の熱意により、この木は、無事に荒木公園内に移植され、老木にも係わらず、毎年可憐な実を実らせ、来園者に親しまれている。
水師営のナツメの木は、『昨日の敵は、今日の友』で有名な小学唱歌『水師営の会見』の歌詞の一節に『庭に一本棗(ひともとなつめ)の木…』と謳われている。作詞をした歌人であり国文学者であった佐佐木信綱は、作詞にあたって、正確を期すため、乃木大将から当時の会見模様を面接伺った折に、会見場所の庭の木について尋ねたところ、『そう言えばナツメの木が一本あったのう』と答えられたと、後年筆者で記している。
日露戦争をはじめ、荒木町の歴史遺産として、この名木の由来を、後世に語り次ぐ。
平成25年3月 荒木町町会」荒木公園 ナツメの木脇の解説板より
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