北野神社[牛天神]
社殿を取り囲む様に植えられた梅の花越しに本殿の屋根が見えて、なんともうっとりな出会いとなったのだ…
で、改めて正面に回り込んで、まずは手水舎へ…
おぉっ!龍の口から水ってのをよく見かけるけど、なんと“梅”の花びらから水が滴ってる趣向。THE天神様手水舎!って感じだわ。
そして、拝殿前の神牛さんたちが、ころりとなめらか、穏やかで優しげなお姿で、ほっこりする。
さらに、玉垣内の端…注連縄で囲われた大きな石…岩?と、案内板を見ると、“牛に似ている事で「ねがい牛」「牛石」”と呼ばれるようになったらしいのだけど…うん、確かに“牛”さんの形を想起する…かも…撫でると願いが叶うらしぃので、恐る恐るちょっとだけ触れさせていただく。なんか、温かい…
歌碑を眺め、筆塚と御神木の木斛へもお参りし、牛型にくり抜かれた御神籤掛けにくすっとし…西側の鳥居から出ようと鳥居をくぐると…ずずっと階段が…いぃ眺めだわぁ〜
って、
この、『礫川雪ノ旦 by.葛飾北斎・富嶽三十六景』は、牛天神境内西側にあった茶屋から遠く富士を眺望する絵…と言われてるらしぃ。(2017.3撮影)
「当社は寿永3年の春 右大将 源頼朝卿東国追討の時 此処の入江の松に船を繋ぎ和波を待つ その間夢に菅神牛に乗りて現はれ 頼朝卿に2つの幸のあらんことを告げ 武運満足の後は 必らずや社を営み報ゆべしと託し給ふ 頼朝卿夢覚めて傍を見れば 一つの岩石ありて 夢の中に菅神の乗り給ひし 牛に似たり依りて是を奇異とせしが 果して同年の秋頼家卿誕生あり 更に翌年には動かずして 平家を悉く退け国を鎮定せり その報賓として此処に 御神を勧請ありて御神領等を寄進す 因て御創立はこの年 元暦元年なり と云ふ」境内由緒書きより
末社:
太田神社(天宇豆女命・芸能の神)/高木神社(宇迦御魂命・五穀の神)
…例祭:3月31日
「天宇豆女命は福の神、藝能の神又商売繁昌の神とも言われ、ぞくに おかめさんの愛称がある 尚かつては諸名優の多数参拝があった
太田神社には猿田彦の命を奉斎し道案内の神であり 宇迦御魂命は五穀豊穣の神である」境内案内板より
《ねがい牛/撫で岩(牛石)》
「源頼朝が腰かけた石です 撫でると願いが叶います 左側の口元より撫でながらお願いごとをお唱え下さい」石横の案内板より
1. 源頼朝公がこの地で休息お折に、腰掛けられた石である。
2. この石は菅原道真公により願いが叶った。
3. 願いが叶った事、牛に似ている事で「ねがい牛」「牛石」と呼ばれた。
4. 是の石を御祭神として奉り、牛天神と名づけた。
5. この牛石に願いをかけ撫でると「願いが叶う」と伝えられ、今も尚信仰されている。
《北野神社・中島歌子歌碑》
「北野神社は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は、菅原道真公である。
縁起によると、寿永元年(1182)源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現われて、二つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び、元暦元年(1184)ここに社殿を造営したという。また、夢さめて菅神の立っていた跡に、牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)
境内の南側に、中島歌子(1844〜1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾『萩の舎(はぎのや)』の塾主である。
門下には、梨本宮妃、鍋島候夫人や前田候夫人など、上流中流層の婦人1000余人がいた。樋口一葉、三宅花圃らはその門弟である。
歌碑は歌子の死後、明治42年(1909)門下生によって建てられた。
“雪中竹
ゆきのうちに根ざしかためて若竹の 生ひ出むとしの光をぞ 思ふ”
文京区教育委員会」石碑横の案内板より
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