四谷於岩稲荷田宮神社
そんなこんなしてる間に、四谷お散歩計画を…しげしげ眺めてコースを練っていて“四谷”於岩稲荷田宮神社、発見!…“四谷”って入ってるってことは、こちらが分社か?とか思いつつ、その向かいのお寺にも“於岩稲荷”の文字をみつけて、さらに????
行けばわかるでしょ…(事前調査は、普段からあまりしない…)
(前置き、長っ)
で、辿り着いた左門町、四谷於岩さん界隈…うん、確かに道の左右に“於岩稲荷”ってある…とりあえず、興味の根本“田宮”さんの方へ…
鳥居手前の横にある東京教育委員会による解説板を読んで、なぜ新川にも“於岩稲荷田宮神社”があるのか、この地の由来、“田宮”の意味を理解。
『四谷怪談』はまったくの創作でお岩さん夫婦はとても仲がよかった…あたりの話は、前にどこかで耳にしたことがあったのだけど…
創作といえど、後世、多くの人々がアノ怪談を事実のように勘違いしてるってのは、お岩さんにとっては腹立たしいことじゃないのかね…あたしだったら、むしろそれを理由に化けて出そぉ…
と思ったのだけど…お岩さんのお墓は、西巣鴨の妙行寺さんにあるということで、ちょいとぐぐってみた…そのお墓にもお岩さんに関する解説板があるようで…ん?
『お岩様が、夫伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永13年2月22日であり、爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた。
この寺も四谷にあったが、明治42年に現在地に移転した。
お岩様に塔婆を捧げ、熱心に祈れば必ず願い事が成就すると多くの信者の語るところである』
なぜ巣鴨なのかってのは理解できたけど、やっぱり“四谷怪談”ばりの顛末?
もう、何が本当なんでしょ?
と、お岩さんに関する謎はひとまず置いといて…お参りを…
鳥居をくぐって境内左手の手水舎によると、その先の重ねられた小さな朱い鳥居に吸い寄せられる…小さな祠のお稲荷さん…背後は塀であるブロックが見えるくらいだけど、ちょっと“狐穴”を彷彿とさせる雰囲気…祠の前の狐さんたちの鼻がなんだか白くて長い…欠けてしまって修理したのか?なんだか微笑ましい姿…
正面に戻って、拝殿へお参り。こちらの狐さんは、ちょっと犬っぽい…
お賽銭箱まわりに、いろいろなもの(四谷怪談に関する記事など)が貼ってあり、横に置かれた箱には、“四谷怪談”が出来るまでの経緯など書かれた印刷物と宮司さんが書かれたものらしい『お言葉(お守)(「一枚お持ち帰りください」…)』。
どちらもいただいていくことにする…『お言葉』はかなり真剣に選ばせていただきましたよ………
さて…お向かいの『於岩稲荷』なお寺へも、行ってみましょ。(2017.9撮影)
「この神社の『於岩』というのは『お岩』という江戸時代の初期、江戸の四谷左門町で健気な一生を送った女性のことである。その女性の美徳を祀っているのが、この神社である。ところが、その『お岩』さんの死後200年近く経ってから、図らずも芝居の主人公になった。『四谷怪談』である。しかも福を招き、商売繁盛のご利益があり、芸能の成功、興行の成功にはことさら霊験あらたか。さらに最近では交通安全、入学試験にも功徳がある、という。怨霊と『お岩』さんの関係は、いったいどうなっているのか。
脚色された於岩 第一幕。時は江戸初期。所は四谷左門町の武家屋敷の一角。
お岩は徳川家の御家人の田宮又左衛門の娘で、夫の田宮伊右衛門とは人も羨むいい夫婦だった。ところが三十俵三人扶持というから、年の棒給は十六石足らず。台所はいつも火の車だった。そこでお岩夫婦は家計を支えるため商家に奉公に出た。お岩が日頃から田宮家の庭にある屋敷社を信仰していたおかげで、夫婦の蓄えも増え、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができた。
お岩稲荷 信仰のおかげで田宮家を復活した、という話はたちまち評判になった。そして、近隣の人々はお岩の幸運にあやかろうとして、屋敷社を『お岩稲荷』と呼んで信仰するようになった。評判が高くなるにつれ、田宮家でも屋敷社のかたわらに小さな祠を造り、『お岩稲荷』と名付けて家中の者も信仰するようになった。そればかりではなく、毎日のように参拝に来る人々の要望を断り切れず、とうとう参拝も許可することになった。
それからは『於岩稲荷』『大巖稲荷』『四谷稲荷』『左門町稲荷』などいろいろに呼ばれたが、家内安全、無病息災、商売繁盛、開運、さらに悪事や災難除けの神としてますます江戸の人気を集めるようになった。お岩という女性に怨霊のかけらもない。
第二幕 都には、江戸後期。所は、歌舞伎の作者、鶴屋南北の部屋。
鶴屋南北はかねてから、『於岩稲荷』のことを聞いていた。お岩という女性が死んでからもう200年がたっている。それなのに今でも江戸で根強い人気があることに注目した。人気のある『お岩』という名前を使って歌舞伎にすれば、大当たり間違いない。と見当をつけた南北は台本書きに入った。
お岩があんな善人では面白くない。刺激の強い江戸の人間を呼ぶにはどぎついまでの脚色が必要だ。南北は『お岩稲荷』からは『お岩』の名前だけを拝借して、江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ。密通のため戸板に釘付けされた男女の死体が神田川に浮かんだことがある。よし、これを使おう。主人殺しの罪で処刑された事件もあった。あれも使える。姦通の相手にはめられて殺された俳優がいた。それも入れよう。四谷左門町の田宮家には怨霊がいたことにしよう。江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を作家の空想力で操り、脚本はできた。
しかし、四谷が舞台では露骨すぎる。『お岩』の名前だけ借りれば十分だ。南北が付けた題名は『東海道四谷怪談』。四谷の於岩稲荷の事実とは無関係な創作であることを示すことにした。
天才的な劇作家が虚実取り混ぜて創作したのが、お岩の怨霊劇だった。
第三幕 時は、文政8年(1825)。江戸文化が最も華やかで、文化爛熟いわれた時代。寛政から始まった幽霊物の読み本が最盛期を迎えていた。
果たせるかな、歌舞伎は大当たりした。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎の『東海道四谷怪談』は江戸中の話題をさらい、以来、お岩の役は尾上家の『お家芸』になったほどだった。歌舞伎がますます於岩稲荷の人気を煽った。あまりの人気ぶりに幕府も当惑し、四谷塩町の名主・茂八郎に命じて町内の様子や出来事をまとめさせ、奉行に提出させている。歌舞伎の初演から2年目のことだった。
第四幕 時は、その後。所は四谷左門町の於岩稲荷神社。この歌舞伎の影響力は大きかった。
最初は出演した役者がもっぱら参拝していた。そのうち上演前に参拝しないと役者が病気になる、事故が起こるといった話にまで発展するようになった。祟りがある、という声もあったが、事故の原因はほかにあった。なにしろ怪談である。トリックを凝り、道具だても複雑になり、多くなる。おまけに怪談だから、どうしても照明は暗い。また天井からの吊し物も多い。そんな中で芝居をすることになるので怪我が多かった、ということだろう。それが怪談にからめて『祟り』と結びついたのである。
第五幕 時は、明治以降。所は中央区新川。
『東海道四谷怪談』を手掛けては天下一品といわれた市川左団次から、『四谷まで毎度出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい』という要望もあり、明治12年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が焼失したのを機会に、隅田川の畔にあった田宮家の敷地内に移転した。それが現在の中央区新川にある於岩稲荷神社で、四谷の稲荷神社とまったく同体の神社だ。その新川の社殿は昭和20年(1945)の戦災で焼失したが、戦後、四谷の稲荷神社ともども復活して、現在は二つの稲荷神社がある。
※もう一つの於岩稲荷 中央区新川2-25-13
お岩の墓地 豊島区巣鴨の妙行寺にある。」境内にて配布されているコピー紙より
《田宮稲荷神社跡》東京都指定旧跡(昭和30年3月28日)
「田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永13年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから『お岩さんの稲荷』として次第に人々の信仰を集めたようです。
鶴屋南北の戯曲『東海道四谷怪談』が文政八年(1825)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲が実在の人物からは200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は明治12年(1879)に火事で焼失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和6年(1931)に指定されました。戦後、昭和27年(1952)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。
平成24年3月 建設 東京都教育委員会」境内案内板より
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