【番外編】子育地蔵堂
待乳山聖天から隅田川を渡って北へ…目指すは、東向島白鬚神社。
その途中で、こちらの地蔵堂に遭遇。
お向かいの“吉備子屋”というお団子屋さんにはひとだかりがあるのだけど、こちらはひっそり。
提灯と石垣、樹々に囲まれ、その木漏れ日がさらさらとしていて、境内はとても落ち着く雰囲気。
いろんなタイプのお地蔵さまがいらっしゃる。
どちらも、お正月ということもあってか新しい朱い前掛けをつけているのだけど、石に彫られた二対のお地蔵さまにはまとめてぐるりとまきつけてあって、なんとも微笑ましい。(2018.1撮影)
その途中で、こちらの地蔵堂に遭遇。
お向かいの“吉備子屋”というお団子屋さんにはひとだかりがあるのだけど、こちらはひっそり。
提灯と石垣、樹々に囲まれ、その木漏れ日がさらさらとしていて、境内はとても落ち着く雰囲気。
いろんなタイプのお地蔵さまがいらっしゃる。
どちらも、お正月ということもあってか新しい朱い前掛けをつけているのだけど、石に彫られた二対のお地蔵さまにはまとめてぐるりとまきつけてあって、なんとも微笑ましい。(2018.1撮影)
【由緒】
「この御堂に祀られている地蔵菩薩は、文化年間(1804〜1818)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。
この地蔵には、次のような伝承があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。
その後、天保3年(1832)4月に十一代将軍徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作が、このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。
御堂前の坂は、明治44年(1911)、堤防工事の土盛り以降、現在まで『地蔵坂』の名で親しまれています。
昭和8年(1933)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は、地元出身の書家、西川寧(文化勲章受章者)が揮毫したものです。
平成23年8月 墨田区教育委員会」境内案内板より
東向島3−2−1 » Google MAP
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