牛嶋神社
とりあえず、三輪鳥居にちょいと感激しつつ、塀の穴から覗き見………重厚な雰囲気漂う社殿や狛犬(牛みたい?)が、かなり気になる。
で、境内を改めて見回す…“撫で牛”さんは、結構大きい。とりあえずは、頭 か?
牛さんと自分の悪いところを交互に撫でるといぃらしぃ。
5年に一度の大祭は、黒牛が鳳輦を引いたり、古式豊かな行列が見られるらしぃ。そちらもかなり気になるのだけど、2012年に行われたそうで、次は2017年か…
いろんな意味で、再訪せねば。(2013.8撮影)
----------------------------------------
三輪鳥居の中の狛牛さんたちに会いたい!と思い続け、やっとやっと…再訪。
本所吾妻橋駅から牛嶋神社、言問橋を渡って今戸をまわり、桜橋で戻ってきて、言問団子をいただき、三囲神社、そしてスカイツリー…というコース。
雲ひとつ無い青空が気持ちのいぃ神社散歩日和。
年末押し迫り、どこの神社でも正月準備中…という時期…なんとなく慌ただしい…
鳥居の内側…念願の狛牛さんとご対面。包丁塚の牛さんとも、撫牛さんとも、ちょっと違う雰囲気で、リアルで美しい。
狛牛さんの背後には、ちょっといたずらっ子顔の狛犬さん、手前にはのほほん顔の狛犬さんと、さらに溶岩山の獅子狛犬親子…
鳥居や社殿の いぃ感じにかすれた木肌の感じや、飾りなんかの緑が、しっとりいぃ感じ。
清々しい一日になりそう!(2016.12撮影)
-----------------------------------------
向島・東浅草あたりをお散歩するときは、本所吾妻橋駅から牛嶋神社でお参りをして…というコースに。
この日のメインは、待乳山聖天だったのだけど、牛嶋神社にお参りに寄ったら、社殿の中で結婚式…素敵です…うっとり。邪魔にならないようにそぉっとお参り…
天気よくてよかったですねぇっ
撫牛さん…ツレが右足の傷口が治るようにって探したけど、後ろに回っても“後ろ足”はお腹の下…で、ショック受けてた………(2017.9撮影)
-----------------------------------------
“今戸焼きの白井さん”に発注しておいた〆猫さんを受け取りに今戸へ…となると、もはや必然的に、牛嶋神社〜待乳山聖天、そして浅草へ…というコースでのお散歩。
牛嶋神社の鳥居が、とにかく好きだ…その風合いも色合いも、“三輪鳥居”という個性的な佇まいも…
下から横から見上げ、そっと触れてみる…大木に触れたときみたいな温もりを感じるのは、気のせい?(2018.5撮影)
----
2018年の10月の台風(24号)で鳥居が倒壊したそうな…悲しいやら切ないやら…お参りに行きたい………
「貞観2年(860)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈(隅田公園内)の東側にあった。昭和7年(1932)に墨田堤の拡張により、現在の場所に再建された。
本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3年(1251)には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(烏亭)焉馬(1743〜1822)の『いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹』の句碑などがある。
5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。」境内由緒書きより
《牛島神社について》
「牛島神社は、もと本所区向島須崎町に鎮座していたが、関東大震災後昭和のはじめ、水戸徳川邸跡の現位置に再建された。
当社の縁起書によると貞観2年(860年)御神託によって須佐之男命を郷土守護神として創祀し、のちに天穂日命をまつり、ついで清和天皇の皇子貞辰親王をお祀りし『王子権現』と称した。
また天文7年(1538)後奈良院より『牛御前社』との勅号を賜ったと言われ、隅田川に沿う旧本所一帯の土地を、むかし『牛島』と呼んだところから、その鎮守として明治初年から『牛島神社』と称するようになった。例祭日9月15日は、貞観のむかしはじめて祭祀を行った日とされている。
治承4年(1180)源頼朝が大軍をひきいて当地におもむき、豪雨による洪水に悩まされた時、武将千葉介平常胤が祈願し、全軍無事を得たところから、頼朝はその神徳を尊信して社殿を建立し、多くの神領を寄進した。
江戸時代には鬼門守護の社として将軍家の崇敬厚く、特に三代将軍家光は、祭礼神輿渡御の旅所としての土地を寄進した。現在の本所2丁目のお仮宮がこれである。
総桧権現造り東都屈指の大社殿を誇る牛島神社は、昭和32年鎮座1100年祭を執行、氏子五十余町牛島講の守護神として崇敬尊信をあつめている。」玉垣内案内板より
《撫牛》墨田区登録文化財
「撫牛の風習は、江戸時代から知らせていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたとき、ゆだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
この牛の像は、文政8年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は『幼年時代』で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。平成17年3月」境内 墨田区教育委員会の解説板より
《江戸・東京の農業 浮島の牛牧》
「文武天皇(701〜704)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。
大宝元年(701)、大宝律令で廐牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。
時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。
明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。
平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行五十周年記念事業」境内案内板より
《烏亭焉馬『いそかすは』の狂歌碑(墨田区登録文化財)》
「“いそかすは 濡れまし物と 夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹”談洲楼烏亭焉馬
この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化7年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字が英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生れ、本所相生町5丁目(現 緑1丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業の大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていましたが、天明4年(1784)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
文政5年(1822)80歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
(現在は寺・墓 共に江戸川区平井に移転)
平成7年3月 墨田区」境内案内板より
やっぱり“東京タワー”の曲線美の方が美しい なんて思ってしまうのは、作った人達に申し訳ないね。
一番の問題は、“色”かな?天気が悪いと曇り空と同化しちゃうし…
上空からの視界に、ちょっとだけ期待してみよぉか…
《料金》(大人)
天望デッキ:2,000円(当日)、天望回廊:1,000円(当日のみ)
その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈平十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この2つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。
その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。
現在の源森橋は、昭和3年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約80年経過し、老朽化したため、平成19年3月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。
平成19年3月」解説碑より
隅田公園は、関東大震災の復興事業の一環として計画・整備された公園(開園:昭和6年3月24日)だそうで、隅田川の両川岸にそれぞれの区立で川沿い1kmほどに広がってる。
墨田区側は、向島1、2、5丁目にまたがり、牛嶋神社の南南西に広がっている庭園は、水戸徳川邸内の池等の遺構を利用して造られているとのこと。
本所吾妻橋駅から源森橋を渡り、隅田公園の庭園を抜けて牛嶋神社へ…
右手にスカイツリーを眺めつつの、なかなかに気持ちのいぃルート。
池の周辺には囲いなどなく、うっかりドボンしそぉでちとこわい…
» すみだ観光サイト(墨田区観光協会)
階段を降りて、降りて…お寺の“裏”な路地へ…
“墨堤常夜燈”が目に飛び込んできた…さすが、総高465cm!
明治4年(1871年)、牛嶋神社境内に氏子たちによって隅田川を往来する川舟のための灯台として、また墨堤の燈明も兼ねて建立されたそうで、宝珠部分には牛嶋神社の社紋が、基台部分には「本所総鎮守」と刻まれている、とのこと。
関東大震災後に、牛嶋神社は移転したけどこの常夜燈はそのままの位置に…
ということで、このあたりが旧社地なのね…
《石造墨堤永代常夜燈》墨田区指定有形文化財
「石造墨堤永代常夜燈は、高さ5メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す『本所総鎮守』の銘が彫刻されています。また、石組基壇には『永代常夜燈』の銘と『石工宮本平八』の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。
東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子17名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治4年(1871)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西降)へ下りる坂の頂にありました。
設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます。発起人17名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。
この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成28年7月21日、墨田区指定有形文化財に指定されました。
墨田区教育委員会」案内板より
この碑がポツンとあるだけなので、このあたりがどんな風に境内として広がっていたのか とか、何もわからない…
とりあえず、「内務大臣 安達謙蔵」さん、ぐぐる…
安達さんが内務大臣してたのは、昭和4〜6年…隅田公園の開園が昭和6年だそぉなので…いやまぁ、そこはかぶっていて当たり前って感じだけど…
うぅん…この碑は、その時点で立てられたのか???
よゝ(世々)のこゝろを我はと ( 問 ) ひけり』
「江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤は、明治時代になってもその魅力を増していきました。
明治時代になり、明治天皇がそれまでの都を京都から江戸に移しました。天皇家では、平安時代から宮中の花宴を代々開催していましたが、明治維新の混乱期や東京遷都で中断していました。1875年(明治8年)花宴の再開において、明治天皇は東京で初めて行う花宴の会場に、この墨堤の水戸徳川家小梅邸を選びました。
その際に詠んだ歌がここに残されています。いかにも王政復古の気負いに満ちた若い帝の歌で、新都の歴史を訪ねたという歌です。」“隅田公園 散策解説板(9)”
コメントを残す